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Cutting Edge

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2006年 04月 16日

NHS

from the cradle to the grave (ゆりかごから墓場まで)という余りにも有名なフレーズに代表される通り、かつての大英帝国の繁栄を背景として伝統的に英国の福祉は非常に充実しています。とりわけ、National Health Service(NHS)と呼ばれる国民医療制度は、私のような外国人労働者も含めた全ての市民に対して無料で医療を提供するという壮大なミッションを帯びています。




もっとも、かつては短期の旅行者までもが無料で医者にかかれたほどに気前の良かったこの制度も、60-70年代にかけての英国経済の凋落によって必然的に規模縮小を余儀なくされ、80年代のサッチャー保守党政権下ではかなり思い切ったリストラが断行されたようです。ところが、この財政再建によってNHS制度そのものの破綻という事態は免れたものの、その引き換えに医療サービスの質は目に見えて低下したようです。例えば、入院が必要と診断されながらその入院を3ヶ月以上も待たされている人の数が70万人を越えていたという記録があります(要するに、入院するのに殆どの人が数ヶ月も待たされる状態です)。保守党の支持基盤である比較的裕福な家庭の場合は、緊縮予算でボロボロになったNHSに厄介にならずとも、実費で近代的な私立病院に通うことが出来たのでまだ良かったのでしょうが、中流階級・労働者階級の家庭にとってNHSのサービスの低下は死活問題でした。97年の総選挙で地滑り的な勝利(英語でもlandslide victory、そのまんまですよね。こちらが語源か?)を収めて政権に就いた労働党は、このNHSの梃入れをマニフェストの主要項目の1つに掲げていました。

以降、ブレア首相率いる労働党政権はその公約通りにNHSの再拡充にかなり熱心に取り組んでいて、政権交代から8年経った現在、NHSの年間総予算はなんと倍増しています。この巨額投資によって、老朽化した病院施設の刷新(90年代には、国営病院の3分の1が築後50年以上経過していた)や医師及び看護婦の増員を図りました。また、かつて“英国病”の極致とまで揶揄された程に評判の悪い公的サービスの生産性の低さは病院においても例外では無かったので、この一大投資がサービスの改善に結びつくように、徹底した数値管理や“健全なインセンティブ”と競争原理、そして周辺業務のアウトソーシングといったいわゆる民間の経営手法が導入されました。数値管理というのは、例えば、英国の病院は救急以外は全てGPと呼ばれるかかりつけ医に予約を入れないと受診出来ないのですが、GPがその初診の予約を2日以内に入れられなかったら減点とか、大病院でもガンの検診の予約は3ヶ月以上かかったらこれだけ減点、6ヶ月ならこれだけ、12ヶ月を超えたらこれだけといったガイドラインがある他、病院のベッドの回転率、1人の患者あたりの平均診療時間、救急患者の病院到着から受診開始までの待ち時間等々、基本的にはウェイティングリストを少しでも短縮出来るように細かい目標値が設定されていて、その他の総合的な評価と合わせて各病院には格付けが付与されています。インセンティブと競争原理については、先述の各数値目標の達成度の高い病院や格付けの向上した病院は翌年度の予算が増額され、病院管理職(というか経営陣)もかなり傾斜のついた成果報酬を手にすることが出来、反対に達成度の低い病院は予算が削られたり経営陣の入れ替えが行われるようになりました。アウトソースについては、ケータリングや消毒業務等は民間の業者に委託されるようになった他、民間の病院コンサルタントが定期的に入って業務効率の改善についてのアドバイスを受けるようになっています。

と、ここまでは政府・与党のプロパガンダ一辺倒でしたが、実際の国民の評価というのはそこまで芳しくはありません。全体の待ち時間は確かにだいぶ改善していて、例えば入院に6ヶ月以上待たされている人の数は8年前の30万人から90%も改善したそうですが、それでもまだ3万人の人が現在も6ヶ月以上も疾病を抱えながら入院を待っている訳です。テレビの政治討論番組には、必ず『わたしゃ、先生に入院した方が良いって言われてからもう14ヶ月も待たされとるんです』などと嘆く老人が出てきますし、国民は改善こそ認めているものの決して満足している状態ではありません。この辺りは、すっかり野党生活が定着してしまった保守党から、『そんなにカネを掛けてこれしか成果が出ないんだったら、質の悪いNHSにばかり頼るのは止めて、所得の低い人が私立病院にかかる時の診療費を助成する方がいいんじゃないのか』と厳しく追及されていて、ブレアも一部その方向に舵を切りつつあります。更には、現場の医師・看護婦からは、『お役所から時間や数字について変な目標ばっかり貼られて時計ばっかり気にしてるから、落ち着いて患者を診れないし、これじゃ手抜きするより他ない』、GPからも『2日以上待たせたら罰則って言われるから、最近は面倒そうな患者から電話があったら、うちに来ないで救急病院に行ってもらうように誘導してる』という声が出ています。実際に、我が家が救急にかかった時にも、明らかに救急で無さそうな人が先にたくさん待っていて、そうした現行制度の弊害を目のあたりにしました(なにも救急の時に、この国の医療政策の欠陥なんか観察したくもなかったのですが・・・)。

メディアはNHSの現状をどう見ているのでしょうか。実は、新聞はわりと政府の努力に好意的で、最近のFTも『サービスは着実に向上してる。あとは資金使途の見直しをせよ。設備投資や薬の処方、医療スタッフの増員などが少ししか伸びていないのは、給与水準の引き上げが過度に行われたからだ。英国の医師は世界で一番の高給取りになっている。』『高度先進医療を扱う大病院と、軽度な疾病に対応できる地域密着の病院という風に、もっとメリハリをつけた投資をすべきであって、隣り合った病院が同じサービスを提供しようとするから中途半端』といった論評をしていました。一方、テレビでは今後の方向性を示すというよりは現在の問題点の洗い出しに力点が置いているのか、例えば内部告発者の協力を通じた極秘潜入取材によって『まだまだこの国にはこんなにひどい病院がある。統計ばかり眺めていると、たまにあるこうした“例外的だが致命的”というケースはなかなか見えてこない。政府は数字ばかりでなく、もっと現場を向いて仕事をするべきだ。』というメッセージを送り続けています。

ちなみに我が家はいつもNHSを愛用(?)していて、出産の際もNHSの国営病院にお世話になりました(よく『ケチな夫だ』という目で見られてしまいますが、実は妻が『NHSで頑張る』と言って聞かなかったのでした。初産なのに私以外の家族の支えもない中で、外人のスタッフに囲まれての出産はさぞ心細かったでしょうが、我が妻ながらたいした度胸でした・・・)。ところが、肝心の英国人はというと、例えば私の会社の同僚などは、まず間違いなくNHSには行かないですね。『カゼくらいすぐ治るって思うかもしれないけど、もしも何かあったらどうするんだ?安心料だと思って一回50ポンド(1万円)くらい払うのは決して高くないぞ』などと諭されたこともありました。要するに、カネがあるなら私立病院に行くべきで、それが出来ないなら仕方ないからNHSに行くという棲み分けが出来てしまっているようです。こういう傾向がすっかり定着してしまうと、次はいよいよ『オレは自分のことは自分で面倒を見れるから、他人の医療費まで支えるのは勘弁して欲しい。しかも国営の非効率な経営に付き合うなんてまっぴらだ。』ということになっていきます。国民に必要な医療を無料で提供するという崇高な理想は、やはり国家財政に余程ゆとりが無いと持続不能なのでしょうか?恐らくはそうなのだろうと思います。ただ、NHSという壮大な実験の持つ他国へのインプリケーションは本当に大きいので、出来れば英国にはまだもう少し頑張って欲しいところです。患者の目でみても、まだまだ現場に改善の余地はたくさんありそうですから。

by th4844 | 2006-04-16 11:04 | London, UK, Europe


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