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2005年 08月 07日
日本では小泉政権の“改革の本丸”郵政民営化の頓挫がいよいよ現実味を帯びてきて、一気に政局となりそうである。改革遂行の要諦は『危機感を幅広く浸透・共有させること』にあり、そのためには予め一定の支持基盤を固めておくことと、タイミングを見計らって一気呵成に仕上げることが大切であることは、先日のエントリーで眺めた通りであるが、『公社化してからそれなりに頑張っているようなのに、なぜこれ以上性急な民営化を進めなければならないのか?』といった呑気な主張が公然と罷り通るようでは、まだまだ機が熟していないということか。今回は、20年前のサッチャー改革の本丸となったシティの改革"the big bang"について、少し詳しく見ていくこととする。 英国復権の象徴といえるのが、やはり今日のシティの隆盛であろう。だが、繰り返しになるが、サッチャーが登場するまでの間に、英国経済は落ちるところまで落ちていた。金融の世界においても然りで、ビッグバン直前の1985年のロンドン証券取引所の売買高はなんとニューヨークの13分の1、東京の5分の1にまで落ち込んでいたという事実が全てを物語っている。当時は、海外企業は勿論、英国主要企業の株式取引も、不便で割高なロンドン証券取引所を回避して、米国のADR市場や国内の取引所外取引に流れていくという深刻な空洞化が進行していたとか。 ロンドン証券取引所の競争力を著しく低下させていたのは、『固定手数料』『単一資格制度』『出資規制』という取引所会員内での古色蒼然たる競争制限的慣行であった。固定手数料については、最低手数料を業者間で固定していたことに加え、高率の印紙税が取引毎に課されていたため、取引コスト上での国際競争力を失っていた。米国では1975年のメーデー以降株式委託手数料が自由化されて金融機関の再編機運が大いに高まったが、英国では固定手数料のままだったのである。単一資格制とは証券売買に従事する取引所会員を、投資家からの注文を受ける『ブローカー』と、自己勘定でポジションを取ることによってブローカーに対して値付けを行う『ジョバー』の2つの業態に分離し、それらの兼業を認めない業務慣行である。すなわち米国や日本では一つの証券会社が行っていた業務に垣根が設けられていたのである。この単一資格制度はもともと19世紀に利益相反を避けるべく導入されたものらしいが、二百年の時を経て完全に制度疲労を来たしていたといえよう。最後に、出資規制とは取引所会員への外部資本の参加を認めない制度(82年まで最大でも10%に制限)で、外国金融機関や他業態(株式の引受業務を主業務とするマーチャントバンクなど)からの新規参入も実質的に制限されていた。ロンドン証券取引所では、こうした旧態依然とした制度によって既存の取引業者が強力に保護されていたため、少数業者による独占取引によって価格競争力を失ったり、過小資本のままで温存されていた取引所会員が、飛躍的に大口化していた(=リスクが増大していた)機関投資家からの注文を裁けなくなるといった問題が深刻になっていたのである。 サッチャーは、2期目に入って政権基盤が安定するのを待ってからこうした問題の解決に乗り出した訳だが、実は、そもそもサッチャーがこのビッグバンに着手した動機は、『ロンドン市場を近代化・国際化することにより、再び世界に冠たる金融市場とする』といった高邁なものではなく、専ら、その関心はロンドン証券取引所とその会員によるカルテル的慣行の解体にあったと言われている。例えば、ビッグバン以前のロンドン証券取引所において英国債取引の取次ぎに従事する会員は7社に限られ、しかもこのうちの2社で90%の取引を独占していたとも言われていて(?!)、こうしたカルテルの存在が、政府の国債発行コストを高止まりさせていたのである。『自由競争による活性化』『財政再建』を掲げるサッチャー政権としては、こうした状況を看過するわけにはいかなかったのである。サッチャーの当初の狙いはともかく、サッチャーの掛け声に呼応するような形でロンドン証券取引所での自己改革機運も高まり、かくして抜本的な市場改革の土壌が出来上がった。 1986年に実施されたロンドン証券取引所におけるビッグバンの要諦は大きく分けて3点あった。1つ目は非効率性を生み出していた単一資格制や固定手数料の廃止で、競争原理の導入であった。単一資格制の廃止によりブローカーとジョバーの垣根がなくなった他、株式・債券の最低手数料制度が廃止され、完全に自由化された。その結果、平均手数料に印紙税コストを含めた総取引コストは約1.8%から1.0%まで低下したと言われている。2つ目は証券取引所会員への出資規制の撤廃であり、これにより、外資(主に米系と大陸欧州系)系や他業態の金融機関が既存の取引所会員への資本参加という形式で証券業務に参加することが可能となった。これが実施されるや否や、株式取引のジョバー大手全13社とブローカー大手20社中19社が瞬く間に国内外の金融機関によって吸収合併され、それまで伝統的に棲み分けがなされていた証券業(ジョバー/ブローカー)と銀行業の垣根はあっさりと崩れ去ることとなった。3つ目は利便性の向上で、単一資格制度に代わって採用されたマーケットメーカー制(マーケットメーカーが値付けと取引執行を兼業する)によって、大口取引の流動性が向上した他、最新のコンピュータ技術を利用したSEAQ及びSEAQインターナショナルというシステム(市場参加者が証券の売買価格を情報端末のスクリーン上で分単位で知ることが出来る初の本格的な電子ネットワーク)の導入により、ロンドン市場が先進的な機関投資家のニーズに応えられるようになったのは勿論、フランスやドイツなどの大陸欧州企業の株式がロンドン証券取引所で取引されるという現象をも引き起こした。 それにしても、怒涛のような外資の参入に直面した際に、政権の方針が『シティの発展が雇用や景気に貢献するのであれば、そこでのプレーヤーが国内勢であろうが外資であろうが構わない』という方向でぶれなかったことは、それまでの英国の保守的・閉鎖的な体質からすれば驚嘆ですらある。もはや、彼らの関心は英国の金融機関の保護にはなく、英国で活動する金融機関の保護となっていたのである。尚、イングランド銀行は、当初は市場開放に後ろ向きだったといわれるが、それでもいったんビッグバンの実施が決まって外資による買収攻勢が始まると、行政指導などによって、国内の商業銀行やマーチャントバンクによる証券業参入を促し、民族資本による競争力のある総合証券の誕生を手助けした。 こうして86年のビッグバンを契機として活性化されたロンドン市場は、再び欧州の投資銀行業務の拠点、国際金融センターとしての確固たる地位を取り戻し、株式による資金調達規模もニューヨークに次ぐ世界第2位に返り咲いたのである。しかも、英国の金融改革はここでは終わっていない。97年に誕生した労働党ブレア政権下でブラウン蔵相が打ち出した金融監督行政の新機軸は様々な面において画期的なものであった。今日の日本の金融監督行政の枠組も、名称こそ『日本版ビッグバン』とサッチャー改革にちなんでいるものの、その骨子はこの労働党政権下での新体制を大いに参考にして設計されている。こうしたサッチャー後の改革については、また機会を改めて書いてみたい。 by th4844 | 2005-08-07 07:44 | London, UK, Europe
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